syrup16gを聴いてみた・これで終わり

「青さ」を恥ずかしいものと思うか、いずれは失われる貴重なものと思うか。
いつか読んだ雑誌の記事を引っ張り出してまで確認したかったのは、そこです。中田くんと五十嵐さんの考え方に違いがあるのなら、歌詞の世界も違うだろう、とそういうことです。

それで、記事を読み返してみたらやっぱり全然違うんですね。まずは中田くんの発言から。

「俺、若さって恥だと思ってて。『まだ子供でいたいです』なんて言うなんて以ての外。市中引き回しの上打ち首獄門ですよ」
(ROCK'N'ON JAPAN 2003年9月号)

「(前略)同級生くらいの子たちの若いエネルギーっていうか、キラキラしたグリッターが嫌だったんですよ」
輝きがね。
「なんか河原でパシャーンとやって、自転車に二人乗り。そういう輝きを忌み嫌ってましたね。あの頃は。今、思うと全然健全なんですけどね」
(音楽と人 2004年9月号)

高校にも行かずに音楽の道に進むことを決意した中田くんは、若さを否定して、捨てなければやっていけなかった。「青さ」の中でぐるぐる迷って、答えの出ない問いに答えを出そうともがいている時間はなかった。本当はまだ若くて青いのに。
だから、そんなものは嫌いだ、恥ずかしいものだと自分に言い聞かせて精一杯背伸びをする。そして生まれたのが椿屋四重奏の世界。

一方、五十嵐さんの発言。

「学生の頃ね。あの頃が、感受性っていう意味ではいちばん強い。あの頃に傷ついたことってなかなか忘れないけど、最近は意外と耐性ができてるから。それが楽でいいことなんだろうけど、ちょっと寂しいよね」
(音楽と人 2004年5月号)

若さや青さはもう自分にはない、ということをきちんと自覚しながらも、でもそれがとても美しくて貴重なものであったこともわかっているなぁ、と。
syrup16gの魅力っていうのは、若さの真っ只中でもがいている感じではなくて、もう決して若くはない自分が思い返す「青さ」の美しさ、じゃないかなと思います。だから、若い感性があるようで、ない。暑苦しいようでどこか醒めてる。当事者のようで傍観者。そんな相反する顔が交互に見えてくる。若さの只中にいる人にも、若さが過去のモノになってしまった人にもそれぞれの聴き方を許してくれるように思うのです。
…私は微妙なところですね。若いような、若くないような。


若さの中から背伸びして抜け出そうとするか、失われた若さを少しでも取り戻そうとするか、その違いが私の聴き方の違いにも繋がってくる、と思うのです。
イエローモンキーや椿屋四重奏は前者ですね。イエローモンキーの場合は若さどころか現実から抜け出してる感じすらしますが。だから聴く側としても現実逃避の材料としてのめり込む感じで聴いてしまう。そこに描き出される非現実の世界を頭の中で思い描いて、現実を少しでも忘れるために。
一方、ゼペットストアとsyrup16gは後者です。歌われる世界は夢幻ではなくて現実。それは過去の現実かもしれないし、現在の現実かもしれないけれど、紛れもない現実であって、だからのめり込みすぎると苦しくなる。だから少し距離を置いて、今の自分/過去の自分と照らし合わせながら聴く、そういう音楽です。


…と、勝手に、しかもまとまりなく書き連ねてみましたがあくまで私個人の感想であって分類ですから。イエローモンキーに現実を見る人もいるだろうし、syrup16gをエンターテイメントとして聴く人もいるでしょう(いるかなぁ…)。
ただ、聴いてみたら思った以上に良かったのでごちゃごちゃ語ってみたかっただけなんです。やっと喉も治ったし。